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なぜ、古いオルガンの音は美しいのか? [クラシック学問]

岐阜のサマランカホールを訪問したことをきっかけに、サマランカ大聖堂の「天使の歌声」、別称「鳴らずのオルガン」を見事修復した岐阜県白川町のオルガン建造家、辻宏氏の存在を知り、大変な感銘を受けた。その辻さんのことをもう少し知りたいという欲望がどうしても湧いてくる。 


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辻宏氏

「美しい音」を求め、その生涯を信仰とパイプオルガンの制作に注ぎ、81台もの作品を遺した辻宏氏。特にサラマンカ大聖堂など、スペイン、イタリアの歴史的なオルガンを5台修復したことは、今も語り草になっている。

サラマンカホールは、OKBふれあい会館の中に存在するのだが、ホールのゲートの前のロビーのところにTVが設置されていて、その画面にエンドレス再生で、辻氏とサマランカ大聖堂の天使のオルガン修復のドラマが、ドキュメンタリーのような形で放映されているのだ。

それをずっと見ているとじつに興味深かった。

そのドキュメンタリーでは、

オルガンは辻さんが長年にわたり、自らの手による修復を希望。1985年に皇太子時代の天皇、皇后両陛下が大聖堂を訪問されたのを機に、資金面も含めて修復が実現、90年に音色をよみがえらせた。

94年に両陛下がサラマンカを再訪した際、辻さんの演奏で復活したオルガンの響きに耳を傾けられた。

その際、天皇陛下、美智子皇后さまが、晩餐会で国賓として迎えられ、まさに国家間を通してのおもてなし。その場のスピーチでスペイン国王から、「オルガンを修復していただき、日本に大変感謝しています。スペイン、日本との間の厚き友情の証といえましょう。」という感謝のお言葉をいただいる、などの場面が映し出されているのだ。


かなり感動した。


そのドキュメンタリーでは、美智子さまと辻さんとの関係も、じつは、そのときに知り合った仲ではなく、かねてよりオルガンを通じて、ご交友があったことに触れていた。こういう美談も急に起こる訳でもなく、かねてよりの積み重ねによるものということだ。

あのドキュメンタリーソフト、ぜひ欲しい気がする。(笑)

もっと辻さんのことを知りたい。


そこで書籍などがないか調べてみたら、数ある中から、これがいいのではないか、という本を見つけた。 



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オルガンは歌う 歴史的建造法を求めて。
辻宏

https://goo.gl/GoR2nP

まさに辻さんのオルガン建造家としての人生や、世界のオルガン修復のこと、そしてオルガンの音色の「美」に関する自分の考え方など、まさに自著なので、余すことなく書かれていて、興味深かった。

特にオルガン修復のことは、備忘録というか、事実に基づいて、どのように修復していったのか、オルガンの仕組みを理解していないと読解に難しい所もあり、かなりの技術レポートとも言えそうだ。

読みごたえはあった。

ここでは、この本をもとに、辻さんの人生、偉業、そしてオルガンの音色に関する考え方について、紹介できればという気持ちで書いている。 

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辻さんは、愛知県の勝川町(現在の春日井市)に生まれた。お父さんはお医者さん。東京藝術大学に進み、オルガン科を専攻。

大学を卒業後に、本格的にオルガンの製造を学ぼうと決心を固め、2年後にアメリカに渡って、シュリッカー社で見習いとして、オルガン建造の基本を身につけ、さらにオランダのフレントロップ社に勤務するようになり、楽器建造の実際を経験して、将来へ向けての基本を学んだのである。

1964年に帰国するや、神奈川県座間市に「辻オルガン建造所」を作って、以来2005年に到る40年ものの間、81台のオルガンを生み出すことになった。

1971年に、辻さんにとって大きな転機となる。

北ドイツの歴史的オルガンとの出会いである。辻さんが企画したイタリア、ドイツのオルガンを見て回るツアーで起こったこと。イタリアの歴史的オルガンを見て回った後のドイツで、歴史的な北ドイツのオルガンに精通しているハラルド・フォーゲルさんと出会った。


これが辻さんにとっての運命の出会い。

そのフォーゲルさんは、オランダ北部から北ドイツ一帯、そして最後は、ハンブルクへと誘導し、数多くの楽器を説明しながら実演した。

辻さんは、すぐさま事の重大性に気づいた。このときこそ、歴史的楽器(歴史的オルガン)の重要性を確信した転機である。

おそらくこのとき悟った基本的問題点を、2年後に、「歴史的北ドイツ・オルガン建造技術上の特徴について」という小論文にまとめている。



「歴史的オルガンが美しいのは、結局その作り方にあるのであって、単に時間が経って、音がよくなってきたのではない。」


という記述のあるこの論文で、具体的にネオ・バロック・オルガンと歴史的北ドイツ・オルガンを比較しながら論じている。

そこには、まさにそれ以降の辻さんの新しい制作活動の基本が示されていたのだ。

まさにそれ以降の辻さんの造っていくオルガンには、そういった歴史的楽器の想いが随所に反映されていくことになる。フォーゲルさんから学んだ北ドイツ型の楽器を模範として、新しいオルガンの制作に勤しんだ。

フォーゲルさんの歴史的オルガンに関する知識と情熱を受けた辻さんは、即座に日本に招待する。セミナーやリサイタルの毎日。

そんな運命的な出会いがあり、歴史的楽器の重要性を悟った辻さんが、いっそのこと歴史的楽器をそのままそっくり複製してみようか、ということも思い立ったこともあった。

東京祐天寺の聖パウロ教会からのオルガン制作を引き受けたとき、まさにそのことを考えた。フォーゲルさんの勧めもあって、北ドイツのオスターホルツ・シュルムベックにある聖ヴィルハルディ教会1732年製の楽器はどうか、ということになった。最速22のストップを持つ二手鍵盤とペダルからなる仕様。

最終段階では、フォーゲルさん自身も来日して制作のお手伝い。
1976年6月に完成したこのオルガンを辻さんの最高傑作と考える人も少なくない。

この1976年という年は、辻さんにとって新しい出発の年となった。

制作工房を、神奈川県座間から、岐阜県白川町に移し、名称も「辻オルガン」と改めた。

理由は都市化しつつある座間が、楽器制作の場には向かないと考えことにある。
岐阜県の山奥にある新しい場所は、昔学校の古い校舎であったところ。
そこを工房に改築した。

山奥で木材には不自由しない。

以後の30年間は、この緑に囲まれた静かな環境の中で、仕事を続けることになった。

その一方で、歴史的楽器を学ぶために、ヨーロッパに訪れることも忘れなかった。

そして次に辻さんの目を向けさせたのが、イタリアのオルガンであった。

イタリア中部トスカナ地方の古い町ピストイアに数多くのオルガンが演奏もできない状態で放置されていたのに、辻さんが気がついたのは、1970年代後半のことらしい。

そこで許可を取って、そのうち18世紀に建造された2台の実地調査。

そのうちの1台で小さいながらも「最も純粋な美しさ」を持ったドメニコ・ジュンティーリ作の楽器の複製を作成。それを館山の「かにた婦人の村」に納入したのが、1982年のことである。

そして次に、そのイタリアの街ピストイアの歴史的オルガンの修復が始まり、サン・フィリッポ教会のオルガンが昔日の美しい音を取り戻したのが1984年。

このピストイアのある数々の歴史的オルガンを修復、複製&納入していくことで、辻さんは外国人としてはじめてのピストイア名誉市民章を受けた。

そしてこのピストイアのオルガンを使って講習会を開いてイタリア音楽を啓蒙していければ、ということで、この岐阜県白川町で、「イタリア・オルガン音楽アカデミー」が開催されるようになった。以来今に至るまで、ずっと続いているのである。

1988年の第4回の時に、当時皇太子妃だった美智子さまも紀宮殿下とともに、この白川町を訪問されて大いに話題になった。

美智子さまと辻さんとの出会いはこのとき。

これが後の大きな財産となるんだな。

オルガン・アカデミー以外にも両町間で、いろいろな分野で交流が進み、1994年にイタリア・ピストイア町と、岐阜県白川町は姉妹都市関係になる。

一方辻さんのほうは、1974年にスペイン旅行をした際に出会ったサマランカ大聖堂の堂内に放置されていた楽器のことが忘れられないでいた。


ようやく、・・・そしてついにここに来た。(笑)


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サマランカ大聖堂


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サマランカ大聖堂のオルガン「天使の歌声」



その楽器は、最初ダミアン・ルイスという名の建造家が、1558年に造ったということから、「ルネサンス・オルガン」と呼ばれていたものの、17世紀の間に改造されて、実質上バロック様式の楽器になっていたが、ドイツやイタリアのオルガンとは全く異なる独特の暗くて深い音色を持ち、忘れられないものだったという。

しかし大聖堂当局には、修理の資金もないという。

一大決心した辻さんは、自らも国境を越えて文化財を保存する重要性を説いて回り、その結果、1981年から1984年まで在スペイン日本大使を務め、日本とスペインに豊富な人脈を持つ林屋永吉氏の共感を得て、また当時の美智子妃殿下のご賛同もいただき、よき理解者を多く与えられて、日本企業、岐阜県民有志の広い協力を得て、1年で3500万円の資金が集まった。

そして4人の辻オルガンのスタッフを引き連れて、サマランカに乗り込んだのだ。

作業は、1989年8月から8か月。

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その結果、オルガンは、かつての素晴らしい音色と姿を取り戻すことが出来た。

1990年3月25日。修復が終わった「天使の歌声」の奉献式。

スペイン国営放送により、全国放送の実況生中継。

スペイン国民が固唾を飲んで見守っている。
大聖堂前の広場にもたくさんの国民がかけつけていた。
その中に辻さんと奥さんもいる。

まさに400年前の音が再び大聖堂内に鳴り響いた。

オルガンの音色が鳴り響くと同時に、スペイン国民に多くの感動を与えた。
まさに日本の職人魂が400年前のヨーロッパの職人技と共鳴した瞬間であった。

辻さんも、その瞬間だけは、言葉では言い表せない深いものを感じていたようだった。


この偉業がきっかけとなり、大聖堂と同時期に創設されたスペイン最古のサラマンカ大学は1999年、構内に“サラマンカ大学日西文化センター”を設立、センター内の多目的ホールを、”美智子皇后陛下大講堂”と名付けその日西関係を思われるお心に感謝を捧げた。

またオルガン復活に尽力した、元在スペイン日本大使、林屋永吉氏は大阪外国語学校(現大阪外大)でスペイン語を学び、外務省に入省、1941年から1943年までサラマンカ大学に留学生として在籍していた。その縁もあってサラマンカ大学は文化センター内の図書館を林屋永吉日本研究図書館と命名しているのだそうだ。


後年に、いまの皇太子さまも、辻宏氏が修復したサラマンカ大聖堂のパイプオルガンを見て、その演奏を聴いた。(2013年6月13日)

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辻さんは、その楽器を元の形に戻すだけでは満足しなかった。修復作業の結果、この楽器について隅から隅まで知った以上、それを生かして複製を作ろうと考えたのである。

1994年9月に完成したのが、岐阜県県民ふれあい会館(OKBふれあい会館)、通称サマランカホールのオルガンである。45のストップを持ち、三段手鍵盤にペダルから成る、辻さんの制作による楽器のうち最大規模のものである。


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サマランカホール


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サマランカ大聖堂の「天使の歌声」を模したオルガン






辻さんのオルガンの音色の考え方について、とても興味深いことが書かれている。

古いオルガンの音を聴いてみると、ほんとうに美しい音がする。新しいオルガンの多くは、古いオルガンほど美しい音はしない。

現代、美しい音のオルガンは、非常に少ないが、昔の、18世紀以前のオルガンでは、それが正しく修復された場合、そしていまだ修復されていなくても、少しでも元の音が出ている場合には、ほんとうに美しい音をもったオルガンはたくさんある。

19世紀以後の音楽の世界では、感覚を研ぎ澄まして美しい音を創るということから、少し遠ざかり過ぎているのではないか?

まず音色の質よりも音量が重視されるようになった。

それは音楽の場が、響きの良い礼拝堂を離れ、コンサートホールに移っていったことに関係があるのではないか?

古典派の時代からそれは始まった。古典派以降、だんだん大きなホールで演奏会をするようになる。そのほうが興行主は、大きな収入を得ることができ、たくさんの収入があるからだ。興行主は、競って大きなホールを建設し、多くの聴衆を集めて収入を得て、一握りの演奏家に高い報酬を払うということになった。

音楽の世界がこのように変わっていったとき、音量が大きいことが求められたのである。


辻さんが、なぜ古いオルガンを修復するのか、理由の鍵はそこにある。

一番の理由は、修復によって古い美しい音色をよみがえらせることであり、またその失われた制作技術をよみがえらせる可能性があるということである。

修復作業とは、元に戻すことであって、決して改良することではない。

残念ながら、二十世紀ヨーロッパの各地で行われた修復は、修復と同時に改良の手を加えた場合が、あまりに多かった。

それは、たとえばオルガンのピッチを現代風に変えたり、調律法を平均律に変えたり、鍵盤の音域を広げたりするようなことである。

関係者の音楽的な要望によるものであろうが、このような行為は、歴史的遺産の破壊ともいうべきもので、今後、あってはならないものである。

なぜヨーロッパの歴史的オルガンが修復の名のもとに、改造され、元来の美しさを失ってしまったのであろうか?

それは現代人の自信の結果だと思われる。

自然科学や工業技術の進歩と発見の中で、あまりに安易な自信に溢れ、昔の職人の技を自分たちよりも低いものと思い込んでいるのが最大の原因ではないか?

進歩と発展という進化論のようなものが頭にこびりついていて、昔のオルガンは古いもの、遅れていて、進歩していないものという意識が知らず知らずのうちに修復の際に、自分たちが生きている時代の進歩したオルガンへと変更の手を加えてしまうのだと思う。






自分は、ここの一連の記述が、この本で一番大事なところ、オルガン建造家、辻宏としての絶対譲れない考え方、ポリシーなのだと直感的に感じる。



この本を読んで理解できたこと。

辻さんのオルガン建造家としての人生は、北ドイツ、イタリア、スペインなどの歴史的楽器(歴史的オルガン)の音色が美しい真相が、その造り方にあることを発見し、それらを勉強、そしてチャンスをものにして、修復、複製していくことで、その構造を徹底的に知り尽くすこと。

そうすることで、自らのオルガン建造につなげていった。その繰り返しの人生だった、ということではないか、と思った。

ここに書いたことは、この本の一部でしかなく、その内容は、オルガンの構造、修復の過程など専門的な分野にまで至っていて、とてもとても深い内容です。ぜひ、ご一読されること、そしてオルガン建造家としての辻宏氏の人生に触れていただきたいと思った訳です。




そんな辻さんの波乱に満ちた人生

1958年(昭和33年) - 東京芸術大学器楽科(オルガン専攻)卒業
           卒業と同時に横浜の成美学園(現 横浜英和女学院)の音楽教師となる。
1960年(昭和35年)4月 -成美学園英語教師であった 松尾紀子と結婚。
アメリカ合衆国Schlicker Organ Companyで3年間オルガン建造を学ぶ。ここでは電気・ニューマティック方式のオルガン製作に関わる。オランダFlentrop Organ Companyにおいてトラッカー方式のオルガンの建造を学び大きく影響を受ける。

1964年(昭和39年) - 神奈川県座間市に、辻オルガン建造所を設立し代表となる。
1973年(昭和48年) - 日本オルガン研究会 を松原茂、佐藤ミサ子らと設立。
1974年(昭和49年) - スペイン・サラマンカ大聖堂で、16世紀のオルガン「天使の歌声」(別名:鳴らずのオルガン)を初めて目にする。
1976年(昭和51年) - 岐阜県加茂郡白川町に転居。呼称を 辻オルガン とする。
1984年(昭和59年) - イタリア・ピストイア音楽院講堂の古いパイプオルガンを修復する。
1988年(昭和63年) - サラマンカ大聖堂から「天使の歌声」の修復を依頼されるが、大聖堂側は資金が無いため修復費用を出せないという事だった。そこで辻は修復費用の3000万円を集める為に、元スペイン大使の林屋永吉に協力を依頼し「オルガン修復協力の会」を結成。会で募金を募り約1年で3500万円を集めた。

1989年(平成元年)8月 - 「天使の歌声」の修復を開始。
1990年(平成2年)3月25日 - 修復が終わった「天使の歌声」の奉献式を行う。
1994年(平成6年) - 岐阜サラマンカオルガンソサエティー 設立。
1999年(平成11年) - サラマンカ大学は辻の功績を称えて「日本スペイン文化センター」を設立した。
2005年(平成17年)12月22日 - 筋萎縮性側索硬化症のため岐阜県加茂郡白川町の病院で死去。72才没。







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